社会復帰概論

むずかしいです

隔靴

自宅に帰ってきた。玄関からリビングまで少し長い、そして暗い廊下をぬるぬる辿る。今日も、雪国に向かうトンネルを抜けるような、それでいて胎内から産まれなおすかのような不安と新鮮さを感じつつドアをゆっくり開く。電気をつけたら部屋は急に平凡な日常を湛えて、その落差に頭が痛む。荷物を投げ捨て外套を脱ぎ、身を床に打ちやる。その動作のどれもが、ばっと音を立てる。そのまま数秒、もう動けないのではなかろうか、そう嘯きながらひいふっと体を起こす。そういや、と冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中に、パックから出した苺が皿に置いてあったのでそれを取り出す。

「苺って、先端が一番甘いんだよね」

その言葉を、誰が言ってたのかは知らないけど、私は思い出して、私は手に持って苺を見つめた。そうして先端だけ齧ってみると、なるほど甘いような気がした。苺は漢字で覆盆子とも書くそうだ。漢語由来の書き方らしいが、中国ではこの字は木苺を指すらしい。レトロニムのような倒錯を感じながら、五,六個の苺をさっと平らげた。皿に残った果汁を眺めて、苺の血はこんなに淡いものだろうか、などと思う、部屋に滞る無音、なんとなく点けているテレビに目が向く。高田馬場だかどこだか、東京の知らない土地の食レポを知らない芸能人がくるくると慌ただしそうだ。食レポ番組では大抵関西の店は紹介されない。携帯電話に視線を落とし、理由もなく幾つかのSNSを起動する。どうしようもない距離感に齷齪して、開いたばかりの画面を畳む。心臓がどんどんと肺を突く。今日は何日か、今は何時なのか、慌てて壁に掛けた時計を見る。数秒ぐっと眺めて、針が静止していることを思い出す。携帯を見るから必要ないと自ら電池を抜いていたのだ。項が痒くなった。痒くなったから引っ掻いて、痛みを感じて、爪が伸びたのだと気がつく。爪を切るといつも自分の体が少しだけ自分の下を離れるのが私はあまり好きではない。携帯を握る、ドアを開ける、服を脱ぐ、そんな所作の端々に違和感を覚える。

ふと思い立つ。時計に電池を入れる。針は合わせていないから指している時間は出鱈目だけれど、秒針の音が心地よい。テレビを消す。ざっくりとした夜の中に周期的に鳴る機械音に微睡む。寂しさが立ち返ってくる。時間の流れ方はその人個人によって違うのに。割に合わない眠気を呼び戻して、半ば諦めとともに布団に潜る。