社会復帰概論

むずかしいです

晴れと褻

僕が今死ねば、挽歌には「おもしろかりし人」なんて詠まれることだろう。一方僕は自分をとてもつまらない人間であるとも理解している。これらは対を成す思想ではなく、共存するものだ。だから勿論、僕は前者にも納得する節がある。簡潔に言えば、つまらない人間でもおもしろい人生を歩めるということだ。しかるにこれだとまるで幸せな人生を送っていそうだが、その実そうでもない。歳をとるにつれ、見える世界が広がるにつれ、僕は自らに粗く削った木の楔を打ち込むように内的世界を傷つけている。それを誰かに聞いてもらうのがあまり好みではないから、対照的に整った見てくれを繕った。もとい、それが出来上がっていたのだ。
よく語られる浮説がいうには、人という字は二人の人間が支え合っている象形なのだそうだ。もちろん創作の域を出ないものだが、そうであるならば傑作と言えよう。少なくとも僕の人生において、僕は他者の支えなしに生きることはできなかったし、生きてゆくこともできない。ただ、生きるという、その言葉で包括する範囲によっては、やはり僕は字源通り「ひとり」なのだ。
「ひとり」としての僕は、十把一絡げに言うなら、傲慢な人間である。自分が他者の主観あるいは客観において最優位であることに悦を覚え、他者がそうであることに妬みを覚える。そんな人間でありながら、持てる地位の保全下剋上に努めることはしない。妬み嫉みはすれども嫉妬はしない、嫉妬すべき立場に自分を置かない、ただの悲観主義者。自傷した精神を特定の他者に投げつけるのは嫌いだ、と先述したが、精神が磨り減っているのを大衆にひけらかすだけなら大いに結構だというところがいかにもその例示であり、証左だ。この文章に至るまでも熟々書いてきた通り、僕はよく自分の不出来を嘆く。「助けてください」と言うことはせずに「疲れています」と筆を執る。僕は僕がこのような手法を取ることに殆嫌気が差しているが、それによって何に疲れているのか整理している面もある。そうして自分の処理能力の低さや偶然の失敗といった、自分自身の埒外に漏れ出た自分の欠点を見つけては、五臓六腑に血腥い赤色の烙印を捺してまわる。嗚咽を漏らしながらもそれを繰り返している僕は、悲哀に依存しているのかもしれないし、或いは成長した牙で自らの目を突き死にゆく獣のように、先天的な性質として具有していたのかもしれない。どちらにせよこのことは「ふたり」としての自分でもそうで、他者の肯定を跳ね除け、否定ばかりが耳に馴染んでしまう悪癖が雄弁に物語っている。ただ、「ふたり」の自分はどちらかというと御都合主義者の側面が強いと思う。
僕は、面映ゆくも、他者に優しいと評されることが多い。それは積極的に好意を向けられているということではなく、牙を剥いてくることがないという消極的な意味だと解釈している。この料簡は間違ってはいないが、正鵠を射てもいない。なぜなら僕が敵意そのものを全く持たないというわけではないからだ。確かに特定の対象をとって憎悪することは稀だが、妬み嫉みは表出させないよう努めているし、嫌悪は、常に矛先が自分に向いてしまっている。どちらも他人から見えづらいだけで、覚えない日はない。僕が僕を嫌いでなかったならば、僕は大層厭な奴だったろうという自覚もある。だから「ふたり」の自分は常に他者との距離を見誤ることのないよう、とりわけ近づき過ぎることのないよう振る舞っている。それはつまり、安住できる現状に胡座をかいていることに他ならない。
この二面性が相俟って、蒼然たる忸怩に至ることが最近増えたのだと思う。閾値に至って、自己の中で完結させられないほど肥大し始めた嫌悪の念、それに伴って甚だしくなってゆく主観と客観の乖離、素敵な他者を矢鱈に傷つけてしまいそうな恐怖。そんなえたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけはじめて、いよいよぼくは檸檬を探しに二条寺町の果物屋を目指したくなってしまっている。