社会復帰概論

むずかしいです

フラクタル

 或る寺社。どこにあったかも覚えていないけれど、天皇陵が近くに幾つもあった山中のものだった記憶はある。そんな寺社の堂宇の周りに敷いていた石のことを思い出した。背後から視界の端にぬるりと流れてきた煙を掴むように、唐突に、わけもなく。その石は八十八置かれており、つまりはその石をたんたんと踏んでお堂を回れば、四国遍路が相成ったとされるわけだ。「堂々巡り」とは諸願成就のためにお堂を何周もしたことが語源らしいが、この機構ならば「堂巡り」で済むのかも知れない。それなのにどうやら僕は、のろのろふらふらと、その周りを何巡も何百巡もしているらしい。

 僕でなくてもそうだと思うのだけど、弧を描いた道を進んでいることは、その最中にはわからない。同じ地点に帰ってきてしまって始めて気付けることだ。仕事で同じ失敗をした、同じ理由で友達を呆れさせた、何度も電車を寝過ごした。少し座ったくらいなら、と思った瞬間にはもう道は真っ直ぐであることをやめている。その度に、眼前に広がる過去に見た景色に悔恨という薄い鈍色でバツを塗る。その色は一度塗られただけでは見てもわからないほど薄いのに、僕が何度も何度も同じ色を重ねるものだから、僕は自らの手によって単調増加な悔恨を増幅させるのだった。

ひとつ失敗するたびに、ひとつ自分の格を下げる。次第にそれが僕の通奏低音となった。あちこちに、いろんな濃さのバツを描いているうちに。間違っている自覚はあるが、反対に傲慢であるよりは良い、と言い訳を重ねている。これもまた新たなバツかも知れない。時に、灰色を重ねたり補色を重ねたりすると黒に見えるようになるらしい。自戒の重ね合わせが自罰になり、明るい感情も地の寒色の上からでは素直に受け取れないまま黒い自己嫌悪になってしまったのも我ながら頷けた。

僕を取り巻くそんな周期の、おそらく一番大きなものは「一年」だ。これはどちらかというと僕自身が同じところを回っているというよりかは、一年が同じ周期で回ってくるものだから、その度につい思い返してしまう、そんな自罰だ。結論から言えばそれは他人の死である。恐らく僕の介入の余地はないような。仕方のないことではないか、と応えてくれる人もいよう。一方僕は、病という形で訪れた母の死は運命として甘受することもできているが、自殺してしまった友人に関しては、どうして僕ではなく彼だったのかなどという分不相応な後悔や何もできなかった自分への濫りな懲罰を覚えてやまないでいるのだ。悲しみに繋げて苦しみを遺した二人の十字架、僕はそれを勝手に背負っているのだけれど、それに耐えかねた背骨は既に軋み出している。その濃度、というよりその深度は年を経るごとに増していき、返しのついた釣り針はもうどうやって抜いたものか分からなくなってしまった。貴方はどうだろうか。そんな悔恨や自罰を抱えずに、いなしながら生きられているだろうか。正と負の、殊に生と死のエネルギーは等価ではない、と僕は思う。どうかこの駄文をここまで読んでくださった人々だけでも、抜けることのできない輪廻に囚われることがありませんように。そう願ってやまない。