社会復帰概論

むずかしいです

夜伽

 遠方から夜行バスで帰ってくる間、久方ぶりに夢を見た。ありきたりな、夢のない夢を。

 夢というのは得てして唐突に始まるものだが、昨日のそれは違った。まるでドラマか何かの初回であるかのように、旅支度の僕は意気揚々と実家の最寄りの路線のターミナル駅を降りた。改札の先に友人が一人待っていた。男性だ。だが僕はその友人の顔を、靄がかかったようにぼんやりとしか記憶していない。それを実体験していたときの僕には難なく見えていたのだろう。だからこそ僕たちは何不自由なく流暢に言葉を交わした。道中ある建物が目に留まった。朱塗りの屋根のそれは画然と街から浮いており、僕は何者かに操られたように

「あれ、地中海の街並みみたいだね。」

という言葉を発していた。

「一軒しか建ってないのに街並みって」

その風景を知ってか知らずか、そう言って彼は笑った。その声は高いようであり、低いようでもあった。僕は通学路を進むかのように自然に、そしておもむろにその建物に近づいた。すると一枚の張り紙に『つばめの巣があります。気をつけてください。』と書いてあるのが見えた。見上げると軒先に確かにひとつの巣があった。燕の巣やアーチ状の橋、そんな宙ぶらりの構造物を見るたびに、僕はそれらが造られたり形を保つための物理法則を直感できず、頭がずんと痛んだ。目頭を押さえる僕を友人は少し離れたところで小首を傾げて眺めていた。車には他に誰が乗っていたわけでもないのに、僕は運転席の後ろに乗ることを望んだ。前日に寝ることが叶わずうつらうつらしていた。車は出発し、程なくして高速に乗った。眠気に身を任せてしまおうとアイマスクをつけて、にわかに僕は怖くなった。自分ではない誰かが手綱を握る乗り物が、100キロを超える時速で突き進む。怖気付いても止まれない。僕はブレーキを踏めないし、そもそもここは高速道路だ。ジェットコースターが登りつめるときのような息の詰まりを僕は感じた。がたがた軋んで震える心臓と数倍にも膨らんだ気圧。慌ててアイマスクを外したが、車はどんどん加速しているような気がして、僕の恐怖もそれに比例して抑えられなくなった。止まってくれ、そう声を上げるのを必死で我慢して窓をわずかに開けた。どうどう音を立てて流れ込む無色透明な空気に僕の体は少し軽くなった。背もたれに体を預けて、全身に血が再び流れるのを感じながらがくりと身震いした。少し眠れそうな気がした。そう思った頃には既に意識が遠のいていた。そのとき、切れかけの電灯のように明滅する感覚で、僕は確実に、これが現実でないことを捉えていた。それと同時に、これが現実であることも理解していた。つまり、並行して存在する夜行バスの中の自分と友人の車の中の自分、どちらがほんとうか分からなくなりはじめていた。けれどその区別はもはや必要なかった。不思議と僕は穏やかだった。どちらかの運転手が僕の肩を叩き、そうして僕が目を覚ましたなら、そちらが現実だ。それでよかった。どちらでもあった僕はそのまま意識をどこかへ放り投げ、どちらでもなくなってしまった。どうやら夜行バスが休憩を取ったようで、明かりと物音に引きずられて僕は目を覚ました。僕の夢がそこで終わったのか、僕の人生がそこで終わったのか。曖昧なままバスを降りて水を飲み、煙草を吸った。少し視界が澄んで、早朝の冷気に皮膚の先端がさらさら震えた。バスに戻った僕はシートベルトを締めることはなかった。

フラクタル

 或る寺社。どこにあったかも覚えていないけれど、天皇陵が近くに幾つもあった山中のものだった記憶はある。そんな寺社の堂宇の周りに敷いていた石のことを思い出した。背後から視界の端にぬるりと流れてきた煙を掴むように、唐突に、わけもなく。その石は八十八置かれており、つまりはその石をたんたんと踏んでお堂を回れば、四国遍路が相成ったとされるわけだ。「堂々巡り」とは諸願成就のためにお堂を何周もしたことが語源らしいが、この機構ならば「堂巡り」で済むのかも知れない。それなのにどうやら僕は、のろのろふらふらと、その周りを何巡も何百巡もしているらしい。

 僕でなくてもそうだと思うのだけど、弧を描いた道を進んでいることは、その最中にはわからない。同じ地点に帰ってきてしまって始めて気付けることだ。仕事で同じ失敗をした、同じ理由で友達を呆れさせた、何度も電車を寝過ごした。少し座ったくらいなら、と思った瞬間にはもう道は真っ直ぐであることをやめている。その度に、眼前に広がる過去に見た景色に悔恨という薄い鈍色でバツを塗る。その色は一度塗られただけでは見てもわからないほど薄いのに、僕が何度も何度も同じ色を重ねるものだから、僕は自らの手によって単調増加な悔恨を増幅させるのだった。

ひとつ失敗するたびに、ひとつ自分の格を下げる。次第にそれが僕の通奏低音となった。あちこちに、いろんな濃さのバツを描いているうちに。間違っている自覚はあるが、反対に傲慢であるよりは良い、と言い訳を重ねている。これもまた新たなバツかも知れない。時に、灰色を重ねたり補色を重ねたりすると黒に見えるようになるらしい。自戒の重ね合わせが自罰になり、明るい感情も地の寒色の上からでは素直に受け取れないまま黒い自己嫌悪になってしまったのも我ながら頷けた。

僕を取り巻くそんな周期の、おそらく一番大きなものは「一年」だ。これはどちらかというと僕自身が同じところを回っているというよりかは、一年が同じ周期で回ってくるものだから、その度につい思い返してしまう、そんな自罰だ。結論から言えばそれは他人の死である。恐らく僕の介入の余地はないような。仕方のないことではないか、と応えてくれる人もいよう。一方僕は、病という形で訪れた母の死は運命として甘受することもできているが、自殺してしまった友人に関しては、どうして僕ではなく彼だったのかなどという分不相応な後悔や何もできなかった自分への濫りな懲罰を覚えてやまないでいるのだ。悲しみに繋げて苦しみを遺した二人の十字架、僕はそれを勝手に背負っているのだけれど、それに耐えかねた背骨は既に軋み出している。その濃度、というよりその深度は年を経るごとに増していき、返しのついた釣り針はもうどうやって抜いたものか分からなくなってしまった。貴方はどうだろうか。そんな悔恨や自罰を抱えずに、いなしながら生きられているだろうか。正と負の、殊に生と死のエネルギーは等価ではない、と僕は思う。どうかこの駄文をここまで読んでくださった人々だけでも、抜けることのできない輪廻に囚われることがありませんように。そう願ってやまない。

エレクトロハーモニクス

 

「死ぬかと思ったことはあるか」

そう聞かれて私は戸惑った。反射的に、そんなの私にあるわけがない、と思ってしまった。その問いを発した人は経験があるからそう問うたであろうのに。それでも、その瞬間、問いの真意が私には分からなくて、暫し口を噤んだのち、「うん…ないかな…」などと曖昧に濁してしまった。くれられた一瞥は睚眥のようにさえ思えた。

死に迫られたことはないが、死に迫ったことならある、ということを口にしようとして、やめた。死ぬかと思うことと、死のうかと思うこと。言葉尻は似ていても中身はまるで違う。私の持つ手綱では対岸の人の何をも繙けない。免罪符にするのは侮辱でさえある。一度後者に属した僕は、本当に死ぬまで、前者にはなれないのだ。

事故や災害、そういった不随意の、かつ突発的な死の重みを、いまのところ私は実感として得られていない。実体験として存在しないからそれは当然のことだ。悔いても仕方がないし、悔いるべきことでもない。一方、様々な媒体から私はそれを知識として理解してはいる。それら映像や書物などは、我々に警鐘を鳴らすように雄弁に、それでいて悲しみを溶かすように淑やかに語られていた。けれどもそれを輸入することは常に、宛ら別の言語を解読する試みだった。どれだけ私が歩もうとも、両者の乖離は、それを定量化してよいのならば、一定以上は縮まらない。この差を埋める言葉を私は持ち合わせていなかった。我が身の愚かさと分不相応な悲しみに、嗚咽しそうだった。

それでも私は緩やかな、或いは随意の死を幾度か経験してきた。してきてしまった。それは病気や自殺といったものだ。死に向かって漸進することを誰も止められない。そこには増幅し続けるだけの恐怖と悔恨、そしてわずかながらの諦念がいつもあった。そんなものに縋るしかない時もあった。本当は誰か、何かに縋りたかった。救われたかった。けれどもそんなものを武器にしてしまってはいけないという自戒や自責にも似た念いがそれを留めさせた。時計の針はゆっくり進んでいたし、感情は麻痺して起伏しなくなった。だがこれらも、前述の死に寄り添う理由としては足りなかった。溝を埋めるためのものが、かえってその深さ、果てしなさをはっきりと自覚させる強い根拠になってしまった。空が滲んで消えていくような鈍痛だけが残った。

この差を私は埋めたい。渡り合えるような橋を架けたい。翻訳できるような技法を確立するだけでも目下は構わない。悪い癖なのかもしれないけど、私には他者の負の感情を遍く受け止めたいという願望がある。死だけでなく、堕落や敗北、嫉妬や逃避に四半世紀を費やした身としては、その責任がある、そうせねばならないとすら思っている。それで我が身が破滅するならばそれでも、構わないと。なに、こんな言い草でも多少は素直になれた気がするのだ。ああでもない、こうでもないと模索しているうちに私は死んでしまうのだろう。知っているとも。それでも今のところは、これが私の生き方であり、曲げたくても曲げられないものなのだ。

熱湯で淹れた珈琲が熱くて飲めなかった。思わず遠ざけたそのグラスから飛び散った数滴を、私は泣きそうになりながら手で拭い去った。夜風を浴びようと家の外に出てみた。既に秋の涼しさを湛えた空は赤黄色に明るみ始めていて、私はその温かさに力を失い、膝から崩れ落ちた。

隔靴

自宅に帰ってきた。玄関からリビングまで少し長い、そして暗い廊下をぬるぬる辿る。今日も、雪国に向かうトンネルを抜けるような、それでいて胎内から産まれなおすかのような不安と新鮮さを感じつつドアをゆっくり開く。電気をつけたら部屋は急に平凡な日常を湛えて、その落差に頭が痛む。荷物を投げ捨て外套を脱ぎ、身を床に打ちやる。その動作のどれもが、ばっと音を立てる。そのまま数秒、もう動けないのではなかろうか、そう嘯きながらひいふっと体を起こす。そういや、と冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中に、パックから出した苺が皿に置いてあったのでそれを取り出す。

「苺って、先端が一番甘いんだよね」

その言葉を、誰が言ってたのかは知らないけど、私は思い出して、私は手に持って苺を見つめた。そうして先端だけ齧ってみると、なるほど甘いような気がした。苺は漢字で覆盆子とも書くそうだ。漢語由来の書き方らしいが、中国ではこの字は木苺を指すらしい。レトロニムのような倒錯を感じながら、五,六個の苺をさっと平らげた。皿に残った果汁を眺めて、苺の血はこんなに淡いものだろうか、などと思う、部屋に滞る無音、なんとなく点けているテレビに目が向く。高田馬場だかどこだか、東京の知らない土地の食レポを知らない芸能人がくるくると慌ただしそうだ。食レポ番組では大抵関西の店は紹介されない。携帯電話に視線を落とし、理由もなく幾つかのSNSを起動する。どうしようもない距離感に齷齪して、開いたばかりの画面を畳む。心臓がどんどんと肺を突く。今日は何日か、今は何時なのか、慌てて壁に掛けた時計を見る。数秒ぐっと眺めて、針が静止していることを思い出す。携帯を見るから必要ないと自ら電池を抜いていたのだ。項が痒くなった。痒くなったから引っ掻いて、痛みを感じて、爪が伸びたのだと気がつく。爪を切るといつも自分の体が少しだけ自分の下を離れるのが私はあまり好きではない。携帯を握る、ドアを開ける、服を脱ぐ、そんな所作の端々に違和感を覚える。

ふと思い立つ。時計に電池を入れる。針は合わせていないから指している時間は出鱈目だけれど、秒針の音が心地よい。テレビを消す。ざっくりとした夜の中に周期的に鳴る機械音に微睡む。寂しさが立ち返ってくる。時間の流れ方はその人個人によって違うのに。割に合わない眠気を呼び戻して、半ば諦めとともに布団に潜る。

晴れと褻

僕が今死ねば、挽歌には「おもしろかりし人」なんて詠まれることだろう。一方僕は自分をとてもつまらない人間であるとも理解している。これらは対を成す思想ではなく、共存するものだ。だから勿論、僕は前者にも納得する節がある。簡潔に言えば、つまらない人間でもおもしろい人生を歩めるということだ。しかるにこれだとまるで幸せな人生を送っていそうだが、その実そうでもない。歳をとるにつれ、見える世界が広がるにつれ、僕は自らに粗く削った木の楔を打ち込むように内的世界を傷つけている。それを誰かに聞いてもらうのがあまり好みではないから、対照的に整った見てくれを繕った。もとい、それが出来上がっていたのだ。
よく語られる浮説がいうには、人という字は二人の人間が支え合っている象形なのだそうだ。もちろん創作の域を出ないものだが、そうであるならば傑作と言えよう。少なくとも僕の人生において、僕は他者の支えなしに生きることはできなかったし、生きてゆくこともできない。ただ、生きるという、その言葉で包括する範囲によっては、やはり僕は字源通り「ひとり」なのだ。
「ひとり」としての僕は、十把一絡げに言うなら、傲慢な人間である。自分が他者の主観あるいは客観において最優位であることに悦を覚え、他者がそうであることに妬みを覚える。そんな人間でありながら、持てる地位の保全下剋上に努めることはしない。妬み嫉みはすれども嫉妬はしない、嫉妬すべき立場に自分を置かない、ただの悲観主義者。自傷した精神を特定の他者に投げつけるのは嫌いだ、と先述したが、精神が磨り減っているのを大衆にひけらかすだけなら大いに結構だというところがいかにもその例示であり、証左だ。この文章に至るまでも熟々書いてきた通り、僕はよく自分の不出来を嘆く。「助けてください」と言うことはせずに「疲れています」と筆を執る。僕は僕がこのような手法を取ることに殆嫌気が差しているが、それによって何に疲れているのか整理している面もある。そうして自分の処理能力の低さや偶然の失敗といった、自分自身の埒外に漏れ出た自分の欠点を見つけては、五臓六腑に血腥い赤色の烙印を捺してまわる。嗚咽を漏らしながらもそれを繰り返している僕は、悲哀に依存しているのかもしれないし、或いは成長した牙で自らの目を突き死にゆく獣のように、先天的な性質として具有していたのかもしれない。どちらにせよこのことは「ふたり」としての自分でもそうで、他者の肯定を跳ね除け、否定ばかりが耳に馴染んでしまう悪癖が雄弁に物語っている。ただ、「ふたり」の自分はどちらかというと御都合主義者の側面が強いと思う。
僕は、面映ゆくも、他者に優しいと評されることが多い。それは積極的に好意を向けられているということではなく、牙を剥いてくることがないという消極的な意味だと解釈している。この料簡は間違ってはいないが、正鵠を射てもいない。なぜなら僕が敵意そのものを全く持たないというわけではないからだ。確かに特定の対象をとって憎悪することは稀だが、妬み嫉みは表出させないよう努めているし、嫌悪は、常に矛先が自分に向いてしまっている。どちらも他人から見えづらいだけで、覚えない日はない。僕が僕を嫌いでなかったならば、僕は大層厭な奴だったろうという自覚もある。だから「ふたり」の自分は常に他者との距離を見誤ることのないよう、とりわけ近づき過ぎることのないよう振る舞っている。それはつまり、安住できる現状に胡座をかいていることに他ならない。
この二面性が相俟って、蒼然たる忸怩に至ることが最近増えたのだと思う。閾値に至って、自己の中で完結させられないほど肥大し始めた嫌悪の念、それに伴って甚だしくなってゆく主観と客観の乖離、素敵な他者を矢鱈に傷つけてしまいそうな恐怖。そんなえたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけはじめて、いよいよぼくは檸檬を探しに二条寺町の果物屋を目指したくなってしまっている。

六月病とクーベルチュール

「終点ですよ」
何かが僕の肩を触り、僕は目を覚ました。
車掌と思しきその人は、透き通った灰色の声でそれを言い、僕が目を開いたことを確認するや否や何処かへ去ってしまった。
ああ、乗り過ごした。酔ってもいないのに朦朧としている意識のなかで、かろうじて現状を把握する。右目が開かない。眠たい。途轍もなく。あの時の母親も似たようであっただろうか。どうしようもないことが頭を過る。静かに頭を垂らして、電車が一駅折り返すのを待つ。首の痛みで目が覚めた。一駅分の隙間でまた眠ってしまっていたらしい。電車はちょうど降りる駅に着いてドアを開けたところで、僕はぬるりとドアから脱け出す。忘れ物はないか、と振り返り、電車の後ろの顔と目が合う。右目はまだ開かない。筆で乱雑に書いた横画みたいに強い眠気がずっと尾を引く。籠る空気が気持ち悪くて、耳に付けていたワイヤレスイヤホンを片手に握る。生温かいそれらは、動かなくなった二つの心臓のようだ。 足がうまく上がらず、何もない地面に幾度と躓きながらとぼとぼと帰路を辿る。少しずつ失われようとする意識と反対に、感覚はどんどん鋭敏になってゆく。細い水滴が項に当たり、雨の気配を感じる。その水滴の反射が綺麗な王冠を描いたのが分かる。そうして自分の身体そのものが、そして自分の支配できる領域が加速度的に広がってゆく。ああ、今なら数キロ先のあの人たちの会話も聞こえそうだし、どんなに小さな微生物だって見えそうだ。それと同時に、急速に膨脹した僕は、世界との名状しがたい、途方もない距離感に打ち拉がれた。どんどん大きくなっていく僕よりも遥かに速く世界は拡がっていたのだ。あの全能感は錯覚で、寧ろ僕は縮んでいっていたとはっきり知覚する。クラクションの音が耳を劈いた。いきなり等倍になった世界で、僕は中央分離帯の上に立っていた。そら鳴らされるわな、と呑気に口を滑らせながら徐に歩道へ避ける。ぱしゃ、と足元で水が跳ねる。路肩に水溜りができるくらいにはしっかり雨が降ったらしい。歩道に上げた足の先が少し汚れている。そんな小さなことにすら落胆を覚えながらどうにか家に着く。明かりも音もない空間がいたく愛おしい。にわかに不快に思えてきて、濡れた服を全部脱ぐ。携帯を充電器に繋ぎ、体を横たえながら考える。あぁ、明日、どうしようか。

「特別」

かつて、僕は目立ちたかった。
かつて、僕は特別でありたかった。
かつて、僕は完璧でありたかった。

いま、僕は目立たざるを得なくなった。
いま、僕は異常を手にした。
いま、僕は不随だらけになってしまった。


そんな惨めな、人間の出来損ないの痴話である。


前にも書いたけれど、僕は一歳とちょうど半年の日から弟の世話をする形で、自分を差し置いてまで誰かの機嫌をとる技術を体得してきた。そして小学校に入ってから、勉強が生半可にできた僕は、その技術と成績を組み合わせて、「立派な子供像」そのものを無意識になぞっていた。立派な息子、立派な生徒、立派な友達。なんでもござれだった。今考えれば、だから小中学校での友達関係は浅かったのかな、とか思ったりもする。とはいえ僕は間然されるところのあまりない完璧な生徒であり息子であった。途中からは完璧な介護者でもあった。ならばそれでいいのではないか、それこそが特別なのではないか、と思うかもしれない。けれど、僕は僕自身でその欺瞞に気付いているわけで、どうにもそれがやりきれなかった。
小学五年の頃だろうか、学年で臨海合宿があり、そこである友人が骨折をして途中で帰ってしまったことがあった。その友人は皆が合宿から帰ってきた場に顔を見せた。彼はとても心配されていた。とても多くの同級生に。それが何か腹の底に待ち針を打ったのを今でも覚えている。骨折がしたい、なんていう歪んだ思考に至ったりもした。そこには「本当の特別」があったのだ、と時間が経ってようやくわかった。僕はこれまで何度もそういう「本当の特別」に出会い、その度に出自不明の悔しさ、こう言ってよいのであれば、羨望に近い嫉妬のようなものを抱いた。僕の「偽物の特別」はどこまで進んでもどれだけ積んでも根底の部分でそれとは性質が違うから、それに辿り着くことはなかった。だけれど、遂に、僕にもその恵みが降ることがあった。
二年ほど前、人生において最深の悲しみや苦悩の連鎖のなかで精神科に赴いて、僕は先天的な脳障害を抱えていたことを知った。こう言うと重たい話なのだが、要するに僕はADHDであった。そう、僕だって生まれつきの、「障害者」という「本当の特別」があったのだ。だけど、要らなかった。そんな特別、まったくもって欲しくなかった。特別というより異常だ。個性ではなく障害だ。確かに生きづらかった諸原因に名前がついたことで腑には落ちたけれど、引き換えに僕は烙印を捺された。都会を歩くのが怖くなった。友達に会うことすら億劫になった。周りを歩く人間が「普通」で、僕の友達もみんな「普通」で、僕だけが「特別」だった。異常だった。あれだけ欲していた「本当の特別」が、僕にだけはスティグマの煮え湯を浴びせた。しかもその「特別」は、他人に迷惑ばかりかける代物らしい。そんな人間に生きてる価値があるのか、とか自問したりもした。自答は怖くてまだできないでいる。
僕は、この話を、僕が駄目人間であることの免罪符にしたいわけではない。寧ろあなたが僕との関わりを絶つための免罪符にしてくれればいいのだ。それでもこれからも宜しくお願いしたいのが本音だけど、それはただの僕の都合でしかない。異常者であることの自覚を踏まえて二年、どこまでが不随でどこからが努力不足なのかは正直まだ掴みきれていない。それを探るのにもかなり体力を使うから、ずっとはやってられない。一方で年齢は着実に重なっていって、「普通」との差は開いていく一方だ。また埋められない差の、異質の自覚に暫く悶えることになりそうだ。