社会復帰概論

むずかしいです

六月病とクーベルチュール

「終点ですよ」
何かが僕の肩を触り、僕は目を覚ました。
車掌と思しきその人は、透き通った灰色の声でそれを言い、僕が目を開いたことを確認するや否や何処かへ去ってしまった。
ああ、乗り過ごした。酔ってもいないのに朦朧としている意識のなかで、かろうじて現状を把握する。右目が開かない。眠たい。途轍もなく。あの時の母親も似たようであっただろうか。どうしようもないことが頭を過る。静かに頭を垂らして、電車が一駅折り返すのを待つ。首の痛みで目が覚めた。一駅分の隙間でまた眠ってしまっていたらしい。電車はちょうど降りる駅に着いてドアを開けたところで、僕はぬるりとドアから脱け出す。忘れ物はないか、と振り返り、電車の後ろの顔と目が合う。右目はまだ開かない。筆で乱雑に書いた横画みたいに強い眠気がずっと尾を引く。籠る空気が気持ち悪くて、耳に付けていたワイヤレスイヤホンを片手に握る。生温かいそれらは、動かなくなった二つの心臓のようだ。 足がうまく上がらず、何もない地面に幾度と躓きながらとぼとぼと帰路を辿る。少しずつ失われようとする意識と反対に、感覚はどんどん鋭敏になってゆく。細い水滴が項に当たり、雨の気配を感じる。その水滴の反射が綺麗な王冠を描いたのが分かる。そうして自分の身体そのものが、そして自分の支配できる領域が加速度的に広がってゆく。ああ、今なら数キロ先のあの人たちの会話も聞こえそうだし、どんなに小さな微生物だって見えそうだ。それと同時に、急速に膨脹した僕は、世界との名状しがたい、途方もない距離感に打ち拉がれた。どんどん大きくなっていく僕よりも遥かに速く世界は拡がっていたのだ。あの全能感は錯覚で、寧ろ僕は縮んでいっていたとはっきり知覚する。クラクションの音が耳を劈いた。いきなり等倍になった世界で、僕は中央分離帯の上に立っていた。そら鳴らされるわな、と呑気に口を滑らせながら徐に歩道へ避ける。ぱしゃ、と足元で水が跳ねる。路肩に水溜りができるくらいにはしっかり雨が降ったらしい。歩道に上げた足の先が少し汚れている。そんな小さなことにすら落胆を覚えながらどうにか家に着く。明かりも音もない空間がいたく愛おしい。にわかに不快に思えてきて、濡れた服を全部脱ぐ。携帯を充電器に繋ぎ、体を横たえながら考える。あぁ、明日、どうしようか。