社会復帰概論

むずかしいです

夕方はいつも釣瓶落とし

「今泣いた烏がもう笑うた」
小さい頃くるくると表情を変えていた僕を、祖母がよくこう言って笑っていた。
半袖がまだ少しよそよそしい夕方に雲が漂然と棚引いているのを見て、何となくそれを思い出した。清澄なオレンジ色の風に服が軽やかに踊る涼しさが心地良くて、少し深い呼吸をした。すぐそこのコンビニで買った350mLのハイボール缶を空にする。そんなふうな清濁を併せ呑んで、三円払わされたビニール袋に潰しながら缶を落とす。酒を買ったコンビニのレジには店員と客を隔てるためのやわらかい透明な壁があった。店員もいささか透きとおって見えた。僕らは何の一言も交わすことはなかった。だって透けてたし。だからそれは自然で、僕はなんのくだらない感情も抱かなかった。目に見えるものが信じられるだけむしろ素敵だとさえ思った。
コンビニまでは自宅から歩いて十数分の距離だけれど、道は見慣れない景色だらけになっていて何だか少し足がふらついた。電器屋は潰れていて、スーパーマーケットになっていた。そこで酒を買っても良かったのだけれど、なんとなく拒まれているような気がして足が進まなかった。七八年前からほうったらかしにされていた民家の焼け跡は更地になっていたし、路地へ抜ける細い道には車止めが付けられていた。それは必要なんだろうかと思って、ん、とだけ口にした。
楽天的な女性がこちらへ歩いてきて、ふっと目が合う。彼女はその視線を僕のビニール袋に移した。こいつはもう空ですよ、と言うと、からりと笑って彼女は、自分が飲んでいたのであろうか、500mLのビールの缶の底を摘んで上下逆様に揺すって見せた。その左手の薬指には指輪が光っていた。愛するってなんなんだろう。そう思いながら何も言えなくなって目を瞠る僕を、親しげなお姉さんは横目に流して行ってしまった。なんだか置いてけぼりをくらったようで、僕は口を一文字に結んだ。
家に帰って大学の課題を済ませなくてはいけないな、と思いながら家とは別の方向にずんずん歩いてゆく。課題の量も苦痛だけど、それより最近の講義はつまらない。画面の向こうの教授はなんだか薄ぼんやりしていて、それが僕にも感染りそうになる。だけれど以前よりはよっぽど講義に出ることができている。家にいるのに忙しなかった。
地球は禍殃に身を捩らせていつもより早く自転していて、時間は僕を置いてけぼりにしてぐんと歩を進めていた。時間なんて真っ当な人間が作った概念なのだから、真っ当じゃない僕がその軸から外れることこそ真っ当なんだけれど、それは僕の愁いの溶媒にはならない。寒いなと思って顔をもたげると橙一色だった空に紫が交ざっていた。夕暮れが見えるのが田舎のしるしだよな、と独り言ちた。それはビルがないから見えやすいという意味でもあるし、暇だから空を気にする余白があるという意味でもある。
日没までには家に着かなくては。だって夜は優しくないから。頭の中で風鈴の音が鳴り、首の後ろがすんとした。そういえば僕はいつから自分をひた隠しにするようになってしまったんだろう。風鈴の音が嫌な焦げた香りを呼び戻す。僕を隠そうとして、嘘を多めに盾にして、それになんの利益があったろう。重い鎧を纏うだけ纏って身動きが取れなくなるように、自分が生み出した鉛の錆が両脚を重くする。半透明な店員も楽天家のお姉さんも薄ぼけた教授も、きっとどこかでこんなぐつぐつとした気持ちになることがあるんだろう。そうでなければなんだか悔しいと思った。日没までには家につかなくては。公園のゴミ箱にビニール袋ごと潰れた缶をほいっと下手で放って捨てた。