社会復帰概論

むずかしいです

城崎に旅する記

僕は小説を読むのが好きだ。旅行記のようなものはとりわけ好みである。作者自身の世界と、その人の作品中の世界との境目が曖昧になるからだ。そういう本を読んでいると、知らず主人公に自身を投影してしまったりして、それもまたおもしろい。自分の世界と作者のそれとの境界も融けだすのかも知れない。


そういうわけで僕は、友達との旅行先に迷わず城崎を選んだ。小説家と温泉地というのは大抵何某か繋がりがあるものだが、ここ城崎もまたそうであったからだ。

かの文豪、志賀直哉の『城の崎にて』はこうして始まる。

「山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした。其後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。」

城崎は電車に轢かれた人を快復させる地なのだ。僕の日頃の瑣末な草臥など、それこそ臥された草の如く押し潰されてしまうに違いないのである。ここを差し置いて他に訪ねる場所はなかろう。


いよいよ出立の朝、僕は姫路の駅で降りた。連れ立つ友人を拾うためである。姫路から定刻通りの特急列車に乗り、北へと向かう。余談だが、僕は「旅」というものをしたいとき毎度列車に乗る。旅情というものを感じるには列車で移動するのがいちばんよい。車は自分で運転せねばならないし、バスは些か窮屈であるし、飛行機は僕には少し速すぎる。自分の歩調とちょうどよく調和してくれるのが鉄道旅行なのである。

特急列車は少し古い型なのか、轟々と動力音を立てながら山や田園のなかをくぐり抜けて行く。まるで繁華街の人混みを掻き分け掻き分け進む小さな子供のようで、不安半分応援半分といった気持ちだ。浮足立っていると、列車は三時間半の仕事を終えて城崎温泉駅に着いた。鞄を座席に引っかけてしまってあたふたしたまま列車を降りる。駅前には、小さなロータリーに旅館のバスや路線バスが停まっており、或いは今宵の客人を、或いは見知った隣人を運ぼうと血気盛んである。温泉街、というのは不思議なもので、実際は旅行しに出てきているのだけれども、何かから解放され帰ってきたかのような錯覚を催す。実家に帰省しているような感覚、といえば耳触りがよいだろうか。城崎には初めて来たのだけれど、ここもやはり「帰ってきた感覚」というものを感じずにはおかせなかった。

帰郷の念に身を任せながら、宿まで城崎の街並みを歩く。目抜の広小路は瓦造りの日本の家というふうな外観の店が軒を連ね、時折木造のものも顔を覗かせる。趣があるにはあるが、観光地然としていてあまり落ち着かない。道端で油を売っては先へ進んでいくと、かの有名な大谿川に掛かる太鼓橋が見えてきた。さて左方には柳並木である。かつて倉敷の河畔でも見たけれども、やはり河畔の柳、その鮮やかな青と蒼。もっと言うなら空も碧く澄んでおり、僕はそれに気分を良くしてすぐ側の宿へ滑らせるように爪先を向けた。

これまた話を逸らしてすまないが、旅をするときはホテルではなく旅館に泊まることを勧める。部屋の戸を閉めるまで、宿主と互いに気を遣い遣われするのがなんとも日本で休んでいるという感じがして心地良い。そんな旅館の一部屋にとりあえず荷物を置き、僕らは浴衣に着替えて外へ出た。城崎温泉の七つの外湯をめぐるためだ。浴衣に下駄はその正装である。きちんと着なければならない。

僕らは初めに目の前の『地蔵湯』へ向かった。入口には灯籠が立っており、古くからあるような風情を湛えるが、ふと見上げると六角形の窓がちらちら付いた近代的な建物になっていて少々面食らった。中も一般の銭湯のイメージに近い。日頃の疲弊や故障、体に巣食う悪鬼を、急須に茶葉の要領で抽出してもらう。こんなにも僕は疲れていたのか、と思うほどに動けなくなる。心做しか肩や首が軽くなった気もする。邪魔なものは全てお湯が溶かし出してくれたらしい。あんまり逆上せても嫌なので僕らはそそくさと宿へ戻った。

逆上せたくなかった理由は夕飯にある。城崎温泉といえばカニ!これを待っていたのだ。半ばカニを目的に来たといっても過言ではないかもしれないが、そこはそれ。湯治なのだから贅を惜しむ隙はない。目の前にカニ刺しが運ばれてくる。頭の中まで蕩かされそうになりながら、ふわふわとこれからのことに思いが至った。学業にしても就職にしても何も指針が立っていないけど大丈夫なのだろうか。少し頭をねじってみたが、なにせ頭がふわふわとしていたのでそれから先には進めなかった。カニしゃぶと焼きガニが並ぶ。個人的には刺身が一番好みだったので、しゃぶしゃぶ用に、と運ばれたカニを幾らかそのまま頬張ってしまった。カニ側も不本意かもしれないが、相手が悪かったようだ。

夕飯を済ませたあと、僕らはもう一度外湯に出かけ、宿に戻って酒を呷った。友人は先にさっさと倒れてしまったのでひとりである。酔った頭でぼうっと何かを考えていた気がしたが、知らぬ間に僕も眠ってしまっていた。
次の日、酔いも目も覚めやらぬままに少し足を延ばして、『一の湯』へと向かった。薄縹の空に白い太陽の光が眩しい。昔懐かしい地元の銭湯という感じの外観を呈しており、中には洞窟風呂と呼ばれる頭上まで岩に覆われた露天(露岩?)風呂がある。湯に浸かると、皮膚の内側まで湯が沁みてくるようで、直接撫ぜられた神経がぴりっと起きてくるのが感じられる。お湯に浸けっぱなしだった手をふと引き揚げる。その手は皺だらけでまるで老人のようだ。僕は僕の手がこんなになるまで果たして生きていられるのだろうか。生きていられるとして何をしよう。何ができよう。考え始めるときりがなかった。すると遠くから、もう上がろう、と声がした。その友人の声は頭の中で跳ね返り反芻され、エンターキーが甲高く音を立てるように何かにぶつかり、弾けた。あぁ、もう何も考えなくて良いのだ。暫くは刹那的に、享楽的に生きよう。ふと、そう思った。それが正解だとも思った。

お湯から上がり、装いを整えて帰路につく。くだらぬ男ひとりのくたびれを、この地はやはり隈なく取り除いてくれた。行きしなとは別の特急列車が滑らかに入線してきたので、僕は意気揚々と乗り込み、穏やかに列車は城崎を発った。