社会復帰概論

むずかしいです

煙草

いけないこと、というのは総じてやりたいことなのだ。謂わば禁断の果実。もともと楽しいことが、背徳感という鋭利な刃物を得て僕の心を貫く。動脈から吹くように血を流す僕はその情欲に逆らうことはできず、静かに失楽園を迎えるのみである。

……、などと大袈裟に宣ってはみたが、其の実簡単な話だ。みんなにも、特にちっちゃな頃の思い出として心当たりがあるんじゃないか。触ってはいけないものを触った。受話器やリモコンやその他諸々を食べようとした。まあなんていうか、そんな話だ。


3月の頭に行ったサークルの同回生旅行の宿は山口で取られた。厳島神社に行った後で。秋芳洞をくぐった前か後かは忘れた。とにかく山口の川沿いにある宿に泊まったのだ。レクリエーションを久方振りにやって、10人程度で大騒ぎした。あれは楽しかった。楽しい時間というのは得てしてすぐ過ぎるもので、早々と、とはいえ2時過ぎに、周りのみんなは寝てしまった。僕はこういうときどうしても寝られず、また寝たくなくなる性分なので、いつも旅館の端のスペースなんかで寛いでいたりする。この日はなんだかひさびさに、悪いことがしたくなった。僕は、宿を出ることにした。というのも、宿の目と鼻の先に錦帯橋があったのだ。それを見ずにはおけなかった。それと、僕はもっと悪いことをするために、浴衣の袖の袂にライターと煙草を潜ませて部屋を出た。本当に僕は悪い人間だ。むくむくと膨れ上がる勇気に支配され、僕はどんどん悪くなってゆく。ふふ、僕は最強だ。

館内用のスリッパを履いてエレベーターで7階から下まで降りる。窓から錦帯橋が見えるそうだが、僕はあえて見ないようにした。最強だったはずだが、なぜか体が勝手に動いた。エレベーターを降りると、フロントがぼんやりと光を湛えているのが漏れてくる。電球の暖色が眩しい。一歩絨毯に踏み出して、僕は今自分がスリッパを履いたままであることに気づいた。ああ、部屋に戻らないと、と踵を返しかけて、思い直した。僕は裸足で外へ出ることにした。時期はまだ暖かいとはいえなかったし、何より車道を歩くことになるはずなのでまあ痛かろう。だが、僕はもう膨らみきった僕の風船の紐をすら摑むことはできなかった。その風船はゆらゆらと、しかし悠然と歩を進めてゆく。二重の自動ドアが一枚開き、また一枚開いた。白以外の絵の具を全部混ぜたような色の街並みに、穏やかに川の匂いを運んで肌を撫ぜる夜風が涼しい。磯の香りはしない。そりゃ目の前が海ではなくて川なので当たり前なのだが、僕はこの時たしかに、磯の匂いがしないな、と思った。車道は、思ったより痛かった。でも、思ったより歩きやすかった。心の風船が赴くまま、錦帯橋の袂に着いた。昼間なら入場料が取られているらしいが、刹那ののち僕は無視した。橋は微暖かく、すぐに僕は五橋の真ん中にたどり着く。袂に忍ばせた煙草を取り出す。さっきより少し逡巡し、やはり僕はそれを咥え、火を点けた。アークロイヤルの甘い香りが口と肺を満たす。丑三つ時の深い闇のカンヴァスに、河岸の灯籠の電燈色が描かれ、その隣で煙草の火が榮として灯り、煙が所在無さげに揺蕩った。その不安そうな姿を見て、釣られて僕も少し弱気になった。友達のいるあの宿の7階のあの部屋に戻りたくなった。盈々と、濫々と流れる錦川に滑り落ちそうになったのを彼らが引っ張り揚げてくれたようだ。僕はそそくさと錦帯橋を後にした。

橋を降りると、歩道ですら痛くてまともに歩けそうではなかった。近くの石の椅子に腰を下ろす。浴衣を通り越して石の冷たさがしんと伝わる。ここにいるとなんだか心まで冷たくなってきそうだった。もう一本だけ煙草を吸ってから、なけなしの勇気を振り絞って僕は車道を渡り、ドアを二枚開けて絨毯のある館内へ戻った。気を利かせてくださったフロントの方が入り口にスリッパを用意してくれていた。慌ててカウンターのほうを見てしまった僕は、フロントの方に微笑まれてしまった。弱気になり尽くしてしまっていた僕はすっかり恥ずかしい思いになって、暖かい7階の部屋に駆け足で帰るのだった。