社会復帰概論

むずかしいです

週記2 旅がえり

大学の健康診断を受けに、わざわざバスで30分かけて京都の西北、桂の地までやってきた。山の上にあるキャンパスよろしく、だだっぴろくて木々の緑が目に優しかった。ただ殺風景かというとそうでもなくて、なんなら食堂なんかは普段通っているキャンパスより充実していた。端的に言うとうまかった。山の上だったからか普段行かないところへ行ったからか、はたまた健康診断を受けたからか、胸がすきっとした。

週末には由布院に湯治に向かって、二日三日北九州をうろちょろしたりした。途中泊まった宿は、煤竹色、それか消炭色の杉の梁があるような木造の古風な造りで、客室は離れになっていたし浴室は家族風呂の形式がとられていて、なんとも寛ぎ甲斐があった。ひと月ほど連泊して濁世から蟬蛻……もといなんにも考えず暮らしたいものである。

さて、そういうふうな、大小様々あれど、旅がよいものだという話は何度か書いたし多くの人が似たようなことを述べている。それはそれでよいのだ。そして確かにそうなんだ。けど、数年前にある作家の文章を読んで以来どうしても気にしてしまうのが、その旅の終わり方だ。旅がえりというやつ。実際僕は先の九州の旅行から大阪駅に帰ってきて、なんだ、つまらないなここは、と思ってしまった。旅自体がとても楽しくても、その終わりに、普段見慣れた光景を、出かけた時のままの家を目にすると、名画に上から絵の具をぶちまけられたような気色の悪い感覚に囚われる。或いは冷めた風呂に浸かってしまった感覚……。身悶えをしながら住み慣れた自宅の扉を開けるというのも不思議な話だ。


絵を描きなおすのか、ぶちまけられたものをこそ絵だと宣うのか、そういうことができればよいけど、僕にはそこまで勇気がない。